煉瓦物語/煉瓦の進化と米国への導入
煉瓦の面白さは、例えば、時代の流れに対応して変化していく製造方法であるとか、建物の仕様ではないか、と思うわけです。そういうことは、どんな材料にもどんな事物にもあるのですけれども。やはり人間の叡智といいますか。それぞれの時代の煉瓦に物語があって文明の進歩と共に変わっていく、それはすごく面白いんですよね。
文明の進歩と共に変化する、物語のある煉瓦
ヘイバーストロー図書館(米国)は今も煉瓦建物
煉瓦の二重壁
例えば煉瓦は水漏れします。これは、煉瓦というものが泥を固めて焼成して作られているからで、そこには目には見えない程度でも隙間が、穴が、開いているわけです。煉瓦には空隙があり、そこに水や空気を貯めることができます。そして時間が経つにつれて、煉瓦は劣化をしていくわけです。穴もしかりです。煉瓦建物は水漏れを経験し始めました。中がじめじめして住みにくいとう経験もし始めました。
水漏れという広範囲にわたる水の浸透の問題は、煉瓦構造のひとつである中空壁を発達させることになりました。中空壁とは、空洞壁あるいは二重壁と言い換えることができ、つまり、煉瓦の一列積み(一層)の壁を二つ造って、二つの壁の間に空間があるように建てたものです。壁と壁の間は少なくとも5㎝ほど空けておきます。ここにできた空洞は、それぞれの壁から入る湿気の出入口になります。片方の壁から侵入した湿気は、空間のなかで冷やされて水に戻り重力で下へ落ちるか、あるいは温められて水蒸気となります。
どちらにしても空洞が緩衝帯となり、熱や湿度がもう片方の壁に伝わりにくくなります。そしてこれが普及するようになると、今度は、煉瓦自体に穴が開いている穴あき煉瓦のアイデアが生まれました。それは、建設におけるコンクリート組積造ユニットの使用につながりました。
二重壁の構造図
いつ、アメリカ大陸に煉瓦が入ったか?
煉瓦づくりというのは進歩の歴史です。もちろんそれは、煉瓦だけが特別というわけではなく、木材であるとか鉛筆であるとか、どんなものにもそのような歴史があり、面白い裏話があります。しかしここは少なくとも煉瓦に関心のある方が読んでいるでしょうから、煉瓦について私が面白いと思う話を続けましょう。
英国に煉瓦とその製造方法が伝わったのは、ローマ帝国によるものだと前回述べました。これは当時のことを考えると、ヨーロッパへの煉瓦導入もほぼ同じ経緯と考えられます。また、日本に入ってきたのは本格的には明治維新の直前でした。では、アメリカ大陸に煉瓦が入ってきたのは一体いつごろの話なのでしょううか。
米国には、英国からの植民とともに煉瓦がもたらされました。プエブロなどに見られる赤い泥の壁は先住民族の地代からありましたが、それとこの話は一旦切り離します。ここでは、英国式の煉瓦いわゆる焼成煉瓦が大陸にもたらされたのはいつなのか、という話です。それは、17世紀半ばから後半にかけて、北米の英国植民地から伝えられたと言われています。記録によると、最も初期に製造された煉瓦は、バージニアで発見されています。入植者たちはその強度、耐久性、適応性など、煉瓦の良さをすでに知っていました。そこで、煉瓦を大量に一定の品質で生産しようと、生産拠点となる建物の建設を始めます。最初の煉瓦工場のひとつは、ニューヨーク州アルバニーにあったと言われます。植民地時代、煉瓦産業は大きく発展します。この時代に建てられた煉瓦建物は今日でも残っており、ノースカロライナ州のトライオンパレスやフィラデルフィアの独立記念館は、その代表的なものです。
蒸気動力による煉瓦製造機の発明
大量生産、それは手工業から機械工業への転換を意味します。「同じものを大量に作る」、言うのは簡単ですが大きなエネルギーが必要ですし、画一的に物を作れる機械とシステムを発明し導入しなければなりません。
煉瓦の製造における最も注目すべき進歩の1つは、1852年の蒸気動力による煉瓦製造機の発明です。この機械が導入される前は、労働者は手でひとつひとつ、粘土を型に押し込んでいました。それには、粘土がある程度柔らかくなければならず、しかし、柔らかすぎて型から外れてしまうと、その煉瓦は変形して不良品となったり、あるいは焼かれずに捨てられてしまいます。しかし、このプロセスを自動化することで、より硬い粘土混合物を使用できるようになり、より均一な煉瓦が得られるようになりました。製造プロセスが合理化され、生産量が飛躍的に増加し、煉瓦業界のブームにつながりました。米国にはこれでもかというくらい、煉瓦建物を建てる土地がありましたから。
ニューヨーク首都圏で最大の煉瓦生産の町
19世紀のニューヨーク州ヘイバーストローは、ニューヨーク首都圏で最大の煉瓦生産の町として知られます。当時のヘイバーストローは年間3億個以上の煉瓦を生産していたそうです。この町はハドソン渓谷の下流にあり、川の土手には広大な粘土の堆積場があり、出来上がったレンガはスクーナーと呼ばれる西洋式小型帆船とはしけで、ニューヨーク市に簡単に運ぶことができる恵まれた資源と立地の町でした。とりわけ1835年と1845年の大火災で何百という木造建物を失ったニューヨーク市は、おりしも主要な建材が木材から煉瓦へ移っていた過渡期にあり、その恩恵を受けてヘイバーストローの経済は急上昇したといいます。
しかし不幸なことに、粘土の発掘によって引き起こされた地滑りが、1906年1月にヘイバーストローの町を襲いました。地滑りによって町は荒廃し、生産拠点はクローズし、それに大恐慌が追い打ちをかけます。そうして隆盛を誇った煉瓦産業はみるみる衰退しました。
ヘイバーストローには現在、煉瓦博物館があります。
ヘイバーストロ-当時の様子(1880年代)©ヘイバーストロー博物館
著者情報/小出兼久
特定非営利活動法人日本ゼリスケープデザイン研究協会(JXDA)代表理事。ランドスケープアーキテクト(ASLA)。1990年代よりランドスケープにおける水保全の研究を始め、2003年の第3回世界水フォーラム京都会議では分科会「庭から水、世界を考える」を主催し、成果の発表と日本で初めてランドスケープにおける水保全の必要性を提唱した。2005年第10回ゼリスケープ会議(米国ニューメキシコ州)および低影響開発国際会議シアトル・アジア地域(米国ワシントン州)に日本から初めて出席。2010年には生物多様性国際条約フェア(COP10国際会議と併催)に出席し、以来、低影響開発の普及を目指して活動を続けている。ランドスケープアーキテクトとして雨の庭を実践した作品群は日本や海外で生物学的な受賞歴を持っている。
建物と庭のトータルデザインを手掛ける点でフロンヴィルホームズ名古屋とは考えがマッチし、特に煉瓦の家に関するプロジェクトに興味を持っていただき、コラムの連載が実現しました。
また、当社のフロントガーデンの一角に、日本初・名古屋初の「雨の庭」のモデルガーデンを施工していただきました。