煉瓦物語/オーストラリアの煉瓦事情vol.1
煉瓦の歴史について、古くは日干し煉瓦の時代からローマ帝国へ、さらにはローマ帝国から英国へ(焼成)煉瓦が広まった経緯や、英国からの植民によって煉瓦が米国に広まった話、あるいは日本に初めて煉瓦がやって来た時の話などを、この連載で書いてきました。それによって、自分も一緒に勉強してきたわけですが、ここでふと、違う大陸の話、南半球の煉瓦事情が気になりました。そこで今回は、オーストラリアの煉瓦の歴史をひも解いてみることにします。
オーストラリアにおける煉瓦建物
オーストラリアの煉瓦の歴史も人の移動とともに始まりました。初期の入植者を迎えたオーストラリアでは、住宅の需要が高まります。
人の移動とともに
人々は、羊毛や酪農、農業を目的に、開拓民に参加したのですが、彼らに避難所を提供するために、都市の市街地ではなく、農村部や遠隔地に適切な住宅を提供する必要が生じました。
住宅の枠組みとなったのは木材でした。そして、粗い丸太から作られたスラブ(厚板)をクラッディングする方法はウェザーボード(下見板張り)に取って代わられました。トタンはほぼ普遍的な屋根材になり、テラスを広く取る独特の間取りと外観を作り出しました。これには、断熱にはほとんど注意が払われていなかったため、テラスが暑い夏の夜を過ごすために居住者に歓迎されたという背景もあります。
煉瓦製造会社
煉瓦がオーストラリアに広まったのは、1800年代の後半の話で、煉瓦の普及はオーストラリア全域にわたってではなく、西オーストラリアで目覚ましいものでした。これは風土気候によるものだと言われています。
最初の煉瓦職人の一人であるルイス・ホワイトマンは、1896年にホワイトマンズブリックという煉瓦会社を設立。その後、1945年にオーストラリア煉瓦のもうひとつの雄であるミッドランドブリックが設立され、この2つの会社が長いことオーストラリアの煉瓦住宅において先駆的および中心的な役割を果たしてきました。現在でも単一の煉瓦壁を作るにあたっては、世界有数の煉瓦製造会社であります。ちなみに、ミッドランドブリックが製造した煉瓦は100億個以上だそうで、それらをすべてつなぎ合わせれば、地球から月までを3往復する距離となるそうです。
高価な煉瓦建物
この19世紀に煉瓦がすぐに利用できるようになったおかげで、オーストラリアでは、上述した伝統的なヨーロッパ建築の流れをくむテラスハウスの形で設計されたかなりの量の住宅が、市場に提供されました。より裕福な人々は、ヨーロッパ同様に、フランス積みであるとかイギリス積みであるとか、組積造の頑丈な二重構造の煉瓦の壁を備えた、広々とした家を好みました。しかしそうした煉瓦建物は、大衆にとって、非常に高価なものであったのです。
プレハブ工法
特に戦後、求められたのは住宅の大量生産でした。いわゆるプレハブ工法(建物の一部あるいはすべての部材をあらかじめ工場で製作しておいて、建築現場ではそれらを組み立てるだけで建物ができあがる工法。即席に比較的安価にできるというメリットを持つ反面、良くも悪くも画一的で創造性にかけるというデメリットも指摘されます)での住宅生産が求められ、そのための基本的な枠組みは木材、釘、煉瓦、モルタルによって作られました。
煉瓦ベニヤ
それが煉瓦と木材との最も効果的な妥協案である、煉瓦ベニヤ住宅の開発につながりました。それは、外壁は二重ではなく単一の面レンガの外板で、内壁は木材のフレームを使用します。
使われる木材は通常、広葉樹、松、などでオレゴンからの輸入物も使われます。内壁の裏地は石膏で構成され、壁板と屋根は通常、テラコッタまたはセメントタイルのいずれかで構築されていました(後年、色のついた鉄鋼とアルミニウムの屋根板も屋根のクラッディングに広く使用されています)。
これが、オーストラリアで一般に、煉瓦ベニヤと呼ばれるものです。
この構造は、オーストラリアの西部沿岸地域や砂漠地帯をのぞく地域では、最も一般的な工法です。
煉瓦べニアの構造を採用することで、外壁を設置する前に屋根を設置することができます。これは建設中の降雨に対応することができるので、オーストラリアや日本をはじめとした温帯で推奨される建設方法であり、建設プロセスをスピードアップしてくれます。また、一度建設された家を内部で変更することも簡単です。しかし、こうして作られる壁は二重の煉瓦構造と同じ熱的性質は持たないため、断熱性を加えることが必要となります。
日本の木造建築にも通じる構造の話でしたね。
しかし、そう考えると、純正の煉瓦建築のなんと頑丈で、なんと暖かく、なんと涼しいことか、と思うのですが、やはり。
オーストラリアの煉瓦事情 vol.2に続く
著者情報/小出兼久
特定非営利活動法人日本ゼリスケープデザイン研究協会(JXDA)代表理事。ランドスケープアーキテクト(ASLA)。1990年代よりランドスケープにおける水保全の研究を始め、2003年の第3回世界水フォーラム京都会議では分科会「庭から水、世界を考える」を主催し、成果の発表と日本で初めてランドスケープにおける水保全の必要性を提唱した。2005年第10回ゼリスケープ会議(米国ニューメキシコ州)および低影響開発国際会議シアトル・アジア地域(米国ワシントン州)に日本から初めて出席。2010年には生物多様性国際条約フェア(COP10国際会議と併催)に出席し、以来、低影響開発の普及を目指して活動を続けている。ランドスケープアーキテクトとして雨の庭を実践した作品群は日本や海外で生物学的な受賞歴を持っている。
建物と庭のトータルデザインを手掛ける点でフロンヴィルホームズ名古屋とは考えがマッチし、特に煉瓦の家に関するプロジェクトに興味を持っていただき、コラムの連載が実現しました。
また、当社のフロントガーデンの一角に、日本初・名古屋初の「雨の庭」のモデルガーデンを施工していただきました。