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2023.12.22

小出兼久コラム

煉瓦物語/渋沢栄一の時代、日本にやってきた煉瓦。

煉瓦物語/渋沢栄一の時代、日本にやってきた煉瓦。

目次
渋沢栄一の時代とフランス留学
渋沢栄一の実業家としての活動
煉瓦の普及と日本の耐火煉瓦の歴史

日本にやってきた煉瓦に思いを馳せる

東京駅の丸の内駅舎は、1914年(大正3年)に竣工した鉄骨煉瓦造の建築物。

渋沢栄一の時代とフランス留学

渋沢栄一の活動の背景や彼がフランス留学を経て得た影響に焦点を当てます。明治時代の西洋文明の流入と、それが渋沢にどのような視点や経験をもたらしたのでしょう。
NHK大河『青天を衝け』が放送されていましたね。渋沢栄一の話。なぜ煉瓦のコラムで渋沢栄一を取り上げるのかと言いますと、渋沢栄一は日本における煉瓦の発展に深く寄与しているからです。そのことを煉瓦について学び始めてから知りました。
渋沢栄一は明治の時代を生きて500を超える企業を立ち上げた実業家です。いわば近代日本におけるビジネスの父です。パリ万博の視察というのを契機に彼はフランスに留学し、2年の間滞在しました。ころは明治維新後、西洋の文化がどっと流れ込んできた時代に、西欧文明をまじかに見た渋沢の目にヨーロッパはどう映っていたのでしょうか。

渋沢栄一の実業家としての活動

渋沢栄一が実業家として500を超える企業を興し、特に田園調布の開発など多岐にわたる事業を展開し、また、彼が日本の煉瓦の発展にどのように関与したのでしょう。
帰国して中央政府から少し距離を置いた渋沢(どうやら大久保さんと合わなかったらしい)は、実業家になる道を歩み、さまざまな会社を興します。それはほんとうにさまざまな分野で興していて、例えば住宅地の開発も手がけていて、もっとも有名なのは田園調布の開発です。彼がそのためにつくった会社は、名称こそ変わったものの今でも存続していますし、鉄道と開発をセットにして完成後にその不動産を販売するというモデルは、このころ出来上がったのではないかと思われます。

煉瓦の普及と日本の耐火煉瓦の歴史

渋沢栄一が日本において煉瓦の普及を促進し、耐火煉瓦の歴史が始まる契機になった出来事について。特に地域資源の活用や製造技術の進化に焦点を当てながら、日本の煉瓦の歴史を紐解きます。
開発に関する逸話は、私のようなランドスケープアーキテクトには耳新しい話ではありません。しかし、煉瓦について調べていくうちに渋沢栄一に行き当たったのは、大変興味深いことでした。かれは、日本において煉瓦の普及をせしめた人物なのです。出身地である深谷(埼玉)に煉瓦の工場をつくり、そこで生産された煉瓦は旧東京駅舎に用いられました。現在復元されているあの外観の駅舎の旧式の方です。横浜の赤煉瓦倉庫も、それから日本各地にあるそのころ煉瓦でできた倉庫、建物も、実は多くが渋沢栄一とそれに関連した人々が日本中を回ったのちに、建てられたようです。
彼が日本中を回っていたということを実感したのは、私の住んでいる地域にある老舗の煉瓦会社が、実は渋沢の関係者が訪れて煉瓦造りを推奨したから作り始めたと聞きおよんだからです。それは明治18年ころのことで、なぜこの地が選ばれたのかというと、そこから採掘される原料が煉瓦(この場合は耐火煉瓦)に適していたからだといいます。皆さんはロウセキというものをご存じでしょうか。
私くらいの年齢ではロウセキを使って道路に絵や字を書いて遊んだことがある人が多いのではないかと思うのですが、石筆とも呼ばれる白くて少し硬い石です。あれを混ぜて高温で焼くと溶けて膨張し固まって耐火性に優れた煉瓦になるというのです。この地ではロウセキが良く取れ、それは高温で溶けるとガラスのようになり、混ぜる品質が良くなるとの研究が示されたのです。それはそれまでの(ロウセキなしの)煉瓦よりも、はるかに性能がよいものでここに、日本の耐火煉瓦の歴史が始まります。

焼き物に良い土が取れる場所が焼き物の里と発展したことと同じように、煉瓦に適した原料が取れる場所で煉瓦の生産が開始されたということは、考えてみればあたりまえの、不思議でもなんでもない話です。しかし今なお、ひなびた田舎のように思える地域で、日本の生産量の多くをしめるほどの耐火煉瓦が生産されていたことを知ったのは、素晴らしい出来事でありましたし、また、日本の近代化が、地域を巻き込んで全国で展開されていたことを実感させられたことでありました。

日本煉瓦製造株式会社は、明治政府の近代的な官庁街や鉄道等を整備するという意向により、渋沢栄一らによって設立された。ホフマン輪窯6号窯。

鉄道と煉瓦の関連性と近代化の影響

最後に、鉄道と煉瓦の関係性にスポットを当て、鉄道が物流や輸送手段として整備された経緯を紐解きます。この時代の交通インフラ整備がどのようにして煉瓦産業や建築に影響を与えたかを明らかにします。
煉瓦工場の近くには鉄道があります。田舎とは思えぬほどに、ここだけ鉄道の駅にほど近い。これがなぜだか、皆さんにはわかるでしょうか。その答えは、出来上がった煉瓦を運ぶために鉄道が整備されたのです(煉瓦は重たいですからね)。これは、鉄道が物資の主要な輸送手段であったころの話なのです。
つくづくそのことを思い知らされます。例えば横浜の赤煉瓦倉庫群のように、今でも日本のあちこちに煉瓦倉庫が残っていますよね。ああした倉庫は、あちこちと言っても例えば港湾の近くに、あるいは何かの生産品の輸送のために建てられ、鉄道も敷かれて整備されてきたのです。

現代の私たちは、過剰なほどにめぐらされた輸送網の中で生活をしています。ドアtoドアの輸送、それがあたりまえのように思っていた私ですが、ふと昔について思いを巡らせば、明治のころ、最初に日本全国に鉄道の輸送網をつくるという仕事は面白かっただろうなと思うのです。そして輸送網の描き方にはきちんと理由があったわけです。

前回のコラムで、煉瓦というのは古くは日干し煉瓦が主であり、中東で多くの日干し煉瓦建築が見られるけれども、それらは交易などを介して、アジアやヨーロッパ、アフリカへと広まっていったと考えられるという話を書きました。内容は少し難しかったかもしれません。ですが、オランダ、ポルトガル、スペイン、イギリス、フランスと続く大航海時代、それからシルクロードによる交易の道、あるいは、新大陸アメリカへのヨーロッパからの入植……そういう幾筋もの流れを経て、煉瓦が世界中を旅していたことがわかります。それは、極東の小さな島国である日本にももたらされました。かつて日本に煉瓦を普及させた人たちがいた…こうした過去の動きが煉瓦には込められている、そのことが煉瓦に興味をいだかせるのです。

著者情報

小出兼久

特定非営利活動法人日本ゼリスケープデザイン研究協会(JXDA)代表理事。ランドスケープアーキテクト(ASLA)。1990年代よりランドスケープにおける水保全の研究を始め、2003年の第3回世界水フォーラム京都会議では分科会「庭から水、世界を考える」を主催し、成果の発表と日本で初めてランドスケープにおける水保全の必要性を提唱した。2005年第10回ゼリスケープ会議(米国ニューメキシコ州)および低影響開発国際会議シアトル・アジア地域(米国ワシントン州)に日本から初めて出席。2010年には生物多様性国際条約フェア(COP10国際会議と併催)に出席し、以来、低影響開発の普及を目指して活動を続けている。ランドスケープアーキテクトとして雨の庭を実践した作品群は日本や海外で生物学的な受賞歴を持っている。

建物と庭のトータルデザインを手掛ける点でフロンヴィルホームズ名古屋とは考えがマッチし、特に煉瓦の家に関するプロジェクトに興味を持っていただき、コラムの連載が実現しました。
また、当社のフロントガーデンの一角に、日本初・名古屋初の「雨の庭」のモデルガーデンを施工していただきました。