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2024.09.29

小出兼久コラム

煉瓦物語/煉瓦を訪ねる空想の旅 トルコとエジプト

もう2年以上も旅をしていないと、ふと気づきました。そうしたら、無性に旅に出たくなったのです。とはいえ、冷静になってみれば、現状ではまだ旅はためらわれる昨今。そんなわけで空想の旅にでることにしました。

私が旅をしてみたいと思う理由のひとつに、煉瓦の歴史を訪ねてみたいというのがあります。なにしろ、煉瓦は最も古い建材の一つなので、その始まりから今日に至るまでをたどろうとすれば、非常に多くの地、無限ともいえるほどの建物を訪問することができるのです。しかし、そうした中でどこに行くかを決めることは、大変難しい問題であり、悩ましい問題であります。けれど、旅行に行くならばどうするか。まずは古代煉瓦と出会うためにと考え、空想ですが、トルコとエジプトに行こうと思いました。

1.トルコへ
2.エジプトへ

1.トルコへ

トルコと煉瓦の歴史は古いです。
もっとも古い煉瓦は、紀元前7000~9000年頃(新石器時代)、トルコ南部とパレスチナ東部のエリコ周辺で初めて発見されたものだと言われています。世界遺産に登録されたチャタルヒュユクの遺跡が有名です。これは、世界で農業が始まったころにできた、最初の都市と言われるもので、家は泥煉瓦(泥の壁)でできていました。家の形はほぼ長方形で、間に道はなく家と家は密接して設けられ、ドアがなく、人々は家に屋根のハッチから入り、梯子を伝って室内に降りていました。階段の下にオーブンがもうけられ、人々はそこで煮炊きをし、床を高くした高床(プラットフォーム)で寝起きや食事などの活動を行っていました。死者はその下に埋められています。遺跡からうかがえる当時の暮らしは、環境にやさしく、人付き合いよく、植物を薬草にしたり、家の壁の文様にしたりするほどの植物との密接さがわかり、また、治安よく警察なく、まさに理想の暮らしであると現代では評されています。やがてチャタルヒュユクは、紀元前5000年には放棄されてしまいますが、その原因は気候変動とも言われています。

この自然とともにある佇まいにひかれます。ここは当時の暮らしがよくわかる遺跡です。

アナトリア南部にあるチャタルヒュユク(コンヤ,トルコ)

家々の連なる様子。家と家は密接して建てられており、間に通りはない。上から出入りする。

また、トルコといえば、首都アンカラからバスや車を乗り継いで4時間ほど行ったところに、ハットゥシャという古代ヒッタイト王国(紀元前1600年ごろ)の首都があります。その地の大神殿もまた、日干し煉瓦でつくられていましたが、今はもう土台しか残されていません。

ヒッタイトの大神殿跡

また、トルコではさまざまなイスラム建築の粋を見ることができます。ブルータイルを張ったブルーモスクをはじめとするさまざまなモスク、オスマンバロック様式の建築である8つの大ドームと7つの小のドームからなるグランドバザール、そして、なんといっても一度は行くべきであるトプカプ宮殿など、みどころはたくさんあるのですが、それらの紹介は他に譲るとして、私はオリエント急行の終着駅であるシルケジ駅を訪れてみたいと思います。

オリエント急行とはフランスのパリからトルコのコンスタンチノープル(今のイスタンブール)を結ぶ、ヨーロッパ長距離列車のことです。有名なアガサ・クリスティの『オリエント急行殺人事件』に、かの列車には他の列車と違う人々を引き付けてやまないところがあった、それはその行き先が「オリエント」となっていたのである、という一節(正確ではないと思う)があったのですが、日本というオリエント出身の私であっても、その文章を読んだときはうっとりとしたものです。それほど「オリエント」には魅力があります。

さて、シルケジ駅ですが……煉瓦の都を発って降り立った終着駅イスタンブールで、人々は煉瓦建築にまた出会います。それもまた一興。煉瓦が世界に広がっていることが感じられるだけでなく、同じように煉瓦を建材にしているとはいえ、シルケジ駅のそれは異国情緒が漂います。ここに私は、地域に溶け込んだ煉瓦建築の神髄を見るのです。

イスタンブール旧市街(ヨーロッパ側)にあるシルケジ駅

2.エジプトへ

さて、古代エジプトでも日干し煉瓦を建築材料として使っていました。エジプトには森林が育たなかったため、主な建材は石と煉瓦であったのです。石が墓や神殿のような死んだ者の施設のために使われることが多かった一方で、煉瓦は生きる者の住まいに使われていました。煉瓦の作り方は簡単で、母なる川ナイルから採取した泥を型に流し込み、日干しして硬化させます。古代エジプトの集落の痕跡は、ほとんどが定期的に氾濫するナイルで流されてしまいましたが、一部は現在、ハラッパ、ブヘンやモヘンジョダロなどの遺跡で見ることができます。テーベの墓の壁に描かれた絵には、日干し煉瓦の粘土を混ぜて焼き戻し、運搬する奴隷の姿が描かれています。このとき煉瓦は4:2:1の割合で積まれており、簡単に積むことができたそうです。それにしてもなんと力強く一途な光景ではありませんか。

1964年にアスワンハイダムが建設された結果、ブヘンの要塞は現在はナセル湖に完全に水没しているが、その前に発掘が行われた。


フロンヴィルホームズ名古屋の手がける煉瓦の家
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▶著者情報/小出兼久

特定非営利活動法人日本ゼリスケープデザイン研究協会(JXDA)代表理事。ランドスケープアーキテクト(ASLA)。1990年代よりランドスケープにおける水保全の研究を始め、2003年の第3回世界水フォーラム京都会議では分科会「庭から水、世界を考える」を主催し、成果の発表と日本で初めてランドスケープにおける水保全の必要性を提唱した。2005年第10回ゼリスケープ会議(米国ニューメキシコ州)および低影響開発国際会議シアトル・アジア地域(米国ワシントン州)に日本から初めて出席。2010年には生物多様性国際条約フェア(COP10国際会議と併催)に出席し、以来、低影響開発の普及を目指して活動を続けている。ランドスケープアーキテクトとして雨の庭を実践した作品群は日本や海外で生物学的な受賞歴を持っている。

建物と庭のトータルデザインを手掛ける点でフロンヴィルホームズ名古屋とは考えがマッチし、特に煉瓦の家に関するプロジェクトに興味を持っていただき、コラムの連載が実現しました。
また、当社のフロントガーデンの一角に、日本初・名古屋初の「雨の庭」のモデルガーデンを施工していただきました。